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恋をしたあの日のように

ゆーてあらしっくすのヲタク

2016.11.23

 

今日、民法4条に照らして成年になりました
法律行為を有効に行うことができます
クレジットカードが作れます
お酒をかえます(買った)

この20年、我ながら平凡な人生ではなかったと思っています。
周りの人からは和希ちゃんはいっつも楽しそうでいんね〜とよく言われますが、確かにいっつも楽しいんですがそれなりに挫折も味わってきたし悔しい思いもたくさんしてきました。
振り返っても、あと数センチズレてたら死んでたねっていうくらい派手に交通事故を起こして救急搬送されてしまった日もあるし榛名団の団長でありながら階段から運動会当日に落ちて足首をやってしまったまま黙って徒競走でて1日やりきったこともあるし給食持ちながら階段から落ちて頭から給食かぶった日もあります。そういえば文化祭の指揮者やった時に指揮台に上がる時に引いてある布ですべってど恥ずかしい思いをしたこともあります。先週も津島モールで夜中にすっごい転び方をして膝の傷が痛いです。まず20の誕生日が迎えられたことがおそらく奇跡です。

 

あとそれとは関係ないですがこのタイミングで。地元の友達にどこにいるのと聞かれるのでここで答えておきます。
わたしは小学生、中学生と言い続けたように法学部に進学しました。岡山大学、文句しか言ってないしなんでこんな憂き目にあうのという旨のことはいつもいつもTwitterで言っていますが、やっぱりわたしは、友だちがいて先生がいて勉強をするっていう学校が好きだと思いました。そして、小学生のときの夢であった六法を持って歩く大学生になりました。

なんで岡山なのって群馬でも岡山でもよく聞かれます。岡山に縁があるからじゃないです、無縁中の無縁でした。理由を正直に言うと、「神戸大学以外ならどこでもよかったから」広島大学の赤本もありますうちには。金沢大学になんでしなかったの?高崎から乗り換えなしで行けるのにって出願してから言われました。金沢大学に法学部があることを知らなかったからです。なんで関東にはたくさん大学あるでしょうってよく言われます。結構閉塞感のある土地で育っているので関東の中で人生終始したくなかったからというのもありますがそもそも関東の国立法学部は東大一橋千葉しかありません。

 

でも岡山に来たからこそ知れたことがあります。
私の家系は岡山とは縁のない家です。
ザ・関東 それも北関東群馬県佐波郡東村 良くも悪くもむしろマイナスだけど閉塞感のすごい村ですよね
西日本ってすべてが関西だと思っていました。言葉も全部関西弁だと思っていました。岡山県で話される言葉は関西弁じゃないんです。
親戚が近畿圏以西にいる人なら何言ってんのと思うかもしれませんが、わたしにはこれは衝撃でした。日本はフォッサマグナで分かれていてだいたい名古屋以西は鹿児島まで関西弁だと思っていました。
それに、これは衝撃だったのが日が昇る時間が全然違います。めざましテレビとか見てると、同じ朝5:45でも東京の明るさと岡山の明るさは驚くほど違います。同じ日本でもこんなにも違うということに驚きました。わたしが高校生の頃明るくて当たり前だと思っていた時間に同じ日本ではまだ日が見えない場所があるっていうのは本当に驚いたんです。
他にあげればキリはないですが、岡山県に来なければ絶対に知ることのなかった世界をわたしは今、岡山大学にこなければ絶対に出会わなかった人たちと見ています。そのことが、今地元に帰った時、例え日本の中心が東京だとわかっていてもとても誇りに思います。

岡山大学で、西日本の色々なところの人と出会い、いろいろな分野の専門家って言われる先生に出会いました。ひとつ思ったのは人は全国どこに行っても優しいんだなあということです。高校時代も、アウェーで行った高校だったのでそう思いました。基本的に負けず嫌いで目立ちたがりのくせに自分では要領も悪く不器用で何も出来ないんですが、周りの人に手伝ってください教えてくださいと言っててめえなんかに教えねえよバーーーカ!!って言われたことはありません。ほんとうに幸せだなあと思っています。

 

 


さて、わたしは今法学部生をやっています。何学部?え、工学部?農学部?ってよく聞かれる法学部です。実は小学校3年生のときから法学部に行きたいと言い続け、そうやって入った学部。11年以上ずっと、将来の夢の欄には同じ職業を書き続けてきました。ふわっと選んだわけではなく、これになりたい、そのためには法学部しかないから変わることなく志して結局法学徒になりました。あれからもう12年近くが経つのかと思うと時間の流れははやいなと思います。昆虫の森に社会科見学行った日も中央中等に落ちた日もコンクールで金賞取った日も天国の島のソロをやった日もそして大学入試センター試験の日も変わらず志していたというのを考えるとなかなか感慨深いです。
一瞬で憧れ将来の夢を決めた日から11年と7ヶ月が経ち、小3のわたしが憧れた六法を持ち歩く大学生になりました。ときどき志した頃のことを思い出します。今のわたしはあの頃の私の一つの夢でした。およそ12年前のわたしが見た時に絶望しないような法学部生でありたいと六法を持つ度に思います。

わたしが最初に志した時から、法学部に行こうと決めた日から11年と7ヶ月が経ちました。その間に人生の転機( )と思えることがいくつもありました。
群馬県立中央中等を目指した時、毎日何時間と延々答えのない問、ありきたりな答えを書くと落とされるらしい問を解き続けました。今思えば倍率も6倍くらいあったし絶対正解というものがないのによくあんだけできたと思います。でもあのときのわたしには不思議と倍率でビビるとか難しいとかいった頭はなかったと思います。結局落ちました。人生で初めて、死ぬほど悔しくて悔しさで泣いたと思います。自分の番号がぴょんって簡単に飛ばされるんですよね、1011の次が1023って書いてあったんです、わたし1020なのに。あれは本当に悔しかったです。そんな日もありました。

 

6回全日本吹奏楽コンクールの県大会の舞台に立ちました。1回目のコンクールが金賞でした。あとは銀賞。よく間違われますが金賞って1位じゃないし銀賞って2位じゃない。でれば絶対金銀銅のいずれかはつきます。毎度毎度バカみたいに泣きました。泣かなかった記憶がないです。中学時代、1年に多分320日以上練習したと思うけどちゃんとできませんでした。それでも自分らには自分らなりに先生に対してなぜちゃんとやらないのかとかなぜ嫌いなのかなぜそういう態度なのか、ちゃんとした理由って言ったらおかしいけど意見があって単に反抗心からとかやりたくないからっていうのではなかったんです。もちろんそれもありますが。それだけは知ってほしかったなあと思いますがそれを伝えようとしなかったわたしらに帰責性あるなと思います。そんな時間も過ごしました。高校時代は自分らに委ねられる部分が多かったです。県内全域いろんなバックグラウンドを吹奏楽に関しても持ってる人が集まる学校の中で、一人一人何を考えてるのか探りながらでもそれをどストレートに伝えて大泣きしたこともあったなあと思います。それでも引退するときには半分になるというジンクスに従わず減ったにせよ18人で引退できたのはなんだったんでしょうか、本当に好き。実は中1の頃から前女の定演行ってるので今年行けたら8回行けることになります。ええ、そんなこともありましたね…

 

群馬県立前橋女子高校、前期落ちました。これは元からこの学校の前期は受かりに行くもんじゃないとわかってたので悔しくはなかったです。後期で受かったけど数学は20点しか取れてないと思ったなあ…数学終わったあとひたすら、同じ中学から私ともう1人しか受けてなくて何十人体制で来てる他の受験生から離れた場所で1人で泣いてたのを思い出します。母も伯母も前女だから実は生まれた時から前女に行くことが決められていたようなもんだし中等の受験なんか白い目で見られました。自分としても中等行っても3年で出て前女行きたいくらいに思ってたので、憧れの学校だったと思います。中等を目指す傍ら、幼稚園の頃から、母に前女に行くんだよー前女ーって言われて前女がなんなのかも知らなかったけどわたしは自動的にマエジョなるとこに行くんだと思ってました。そして今はそんな高校の卒業生になりました。この12年弱の間にそんなこともありました。

 

センター試験も受けた!国語終わって隣の渋川女子高校の子らが簡単だったよねーなど言ったときは絶望してりっちゃんに向かって本気で泣いて困らせたけど英語に裏切られた時はもはや涙も出なかった。そのーセンター試験の前の日の投稿が、明明後日からもわたしは神戸大学文系の赤本が開けますようにでした。でも最後の数学ⅡBが終わったあとわたしは広島大学の赤本を買って帰るしかなかった。もはや英語が死んでるので広島すら危なかったし結局受けれなかったけどまあそんな日もありました。

 

岡山大学に合格しました。ここまで言っといてなんですが岡山大学に受かった瞬間嬉しくて本当に泣きました。今でも忘れないんですが0311108って書いてあったの、本当に嬉しかったし、わたしのあいぽんのネットが繋がる前に見ておめでとうって言ってくれたLINEの通知で自分が合格してるのを知りました。もともとそんなに厳しくはなかったはず、だけど1日13時間から国語と英語をひたすら1ヵ月やり続けたし本当に苦しかったです、Aしか出たことのない大学だったからこそ余計に。そんな日もありました。

 

こうやってみていくと世の中も私もこの12年弱で本当に変わったと思います。私が小学校3年のときってフロッピーだったし一太郎スマイルでした。それがスマホとか、なんなん。分数とか、3年生がやるもんじゃなかったもん。
そうやって変わっていく中で、ずっと変わることなく言い続けてきた目標というのは感慨深いものです。

 

いろいろ紆余曲折はあったものの、結局私は今日も全く同じ夢を全く同じ理由で志しています。最近水溶液の飽和量や各地の気候の平均気温について考えることが多く調べるのが面倒で小学校のときに面倒だからと覚えた数値を使って計算するんですが、あれを覚えたのもみんな、その職業に就くために間接的につながってるという思いで覚えたものだったなあと思うと小学生の自分の執着心に驚かされます。そういう心は忘れちゃいけないなと小学生の自分から学ぶことが多いです。こんなことを自分で言うのは頭おかしいんかと思われそうですが、小学校中学校と、すごいねすごいねと言われてきたためものを恐れるということを知らなかったし単純に自信がありました、人生に対して。絶対に人生で失敗することなんてないと思ってた。中等落ちようとも、あれは選考側がバカだったんだとつっぱねたし、私をとらないなんて頭おかしいんかと本気で思った。お勉強には相当の自信はあったしすぐ親は厳しかったから、そこまで苦労してる自分が失敗する姿なんてのは想像つきませんでした。全部正直な話なのでこいつ頭弱いんか?と思ってもらって構いません。
高校で初めて、1番になれない、上位になれないという思いをしました。でもそれはみんながみんな基本上位なんだからという思いもあったしそれでもどうにかできる自信がありました。基本的に前橋女子高校といえば、誰に言ってもすごいねと言ってもらえたのもあります。これから先も、ずっとすごいねすごいねって周りから言われて誰かに負けるようなこと、自分の目標が実現しないことなどないと思ってた。
でも人生というのはそんなに簡単に上手くいくものではないんですね、20のガキが何いうって感じだと思いますが本当にそう思います。負けないみたいな事言ってながらよく考えたら吹奏楽やってて、どんなに長い時間練習しようとも、絶対に何かが引っかかってて金賞に手が届きませんでした。なんでわたしらは音程が合わないのどうしてあっちの学校はできるのなんでなんで、ずっと考えてたけどはっきりとした理由は未だに出せません。なぜ私たちには同じことが出来ないのか、あれは永遠の謎だと思っています。もちろん取り組む態度とかもあったでしょう、でもじゃあなんでわたしらは態度が伴わなくてあっちは伴うのかという点をわたしが納得するほどに説明することは誰にもできないと思います。私自身も無理です。
勉強も同じでした。なぜわたしにはできなくてあの子にはできるのか、なんでそれ以上の時間やってるのにわたしには理解ができなくてあの子にはできるのか、ずっと考えてたし、センターの日もそうでした。なぜわたしはできなくてあの子はできるの、わたし昨日まではできたのになんであの子は昨日までできなかったのが本番ではできるのどうしてって思いました。元から入ってない知識じゃないんです、それを試験の本番という場において使うということがなぜわたしにはできないんだという問題に直面したのがセンターのまさにその日でした。
それから大学に入って法律学なるものを真剣にやるようになって、とくにリーガルライティングとかで感じますが、なぜあの子はその点に気づけて答えれてわたしは、わたしだって真剣にやってるのに気づけないん?ってずっと思っています。答えは出ませんけどね。単なる勉強不足でしょ、と言われたらそうなのかも知れません。やってるつもり、つもりなのかも。じゃあつもりがつもりじゃなくなるってどうしたら、とも思います。

結局そういう答えの出ない苦しさ、解決のできない問題と向き合いながらそれでもやっていくしかないなと最近は思います。例えばどんなにそれが変わらない不条理なものだったとしてもそれならそれで人の1000倍やるまでですよね。母が昔から、貴女は人の1000倍やって初めて人より3歩くらい前に出れる程度なんだと言っていたのでこれは真理、というか昔からこうだったんでしょう。じゃあ1000倍とか無理だから辞めるかと言われたらいや1000倍やってできるならやります。結局和希ちゃんにはできないのねって言われたくはないです。死んでも言われたくない。言われるくらいなら究極殺してくれってくらい言われたくない。
それに負けず嫌いなのでそういうことをするとたぶんそのうち死ぬだろうと思います。

周りの人や、その他いろんな人に自分の将来の目標をちらっと言うと本当に死ぬほど勉強しないとダメなんだよ覚悟はあるのってよく聞かれます。もし高校3年のときより苦しい勉強がこの世界に存在するなら教えてください。どぎつい譜面でかつCl1stという重責、死んでも行きたい大学に偏差値も点数もやってもやっても届かない、浪人は絶対ダメと言われその頃はそれにいろんな先生からその成績で、と嘲笑されました。当たり前です、E判下位層、数学の偏差値44国語の偏差値50、数学は英語と国語の1/2の点数に傾斜されるから…と先生に言った瞬間、あなたは国語2倍にされてできるほど国語できないでしょう日本1現代文が難しい大学で(笑)と笑われたのは本当に悔しくて悔しくてコンクールの直前、今日は今日でできるようにしなければならないことがあるのにその日の練習は手につきませんでした。それから何度泣きながらクラリネットを出してたんでしょう。今思えばそんな気持ちで毎日毎日ケースを開けられたあのクランポンクラリネットに謝りたいです。2つ上の先輩が引退して高1のアンコンの練習が始まった日から高3の3月の定演までずっと共に過ごした楽器でした。それを最後の集大成の時に本当に申し訳なかったと思います。いまさら。何度Eと書かれたところに線を足してBに書き換えてたんでしょう。大学生になっていろんな苦しいを味わったし見たけどあの時より苦しいことなどこの世界にはないと思っています。

長いことを書いてしまいました。次の十年の間にわたしは、小学校2年生から持ってきた目標を叶えます。それを叶えた時に、わたしは宣言を果たしたと言って1度地元に帰れたらいいな、と思います。

今年はねえ標準語なん?と聞かれる上州弁を推してくことが目標です。まちがっても標準語じゃないです。群馬の人ならわかると思うけど、そっちにあるんべがよぉーとか言うんめーーーーっちゃ恥ずかしいよねー!!!!!!でもわたしも岡山の子らや西日本の人ら方言使ってるの羨ましい。京都弁とか、関西弁とかで授業するってみなさん信じられますか。わたしはそれが未だに楽しいです。だから、汚いとかキツイとか言われるけどまあ、推していきましょうかね…